愛情とは何か。パパとは何か。
モノの価値は時間の経過と共に変わる。
社会全体としても、個人としても。
流行りモノが良い例で。
そして恐らく厳密に言ったら価値の変わらないモノは無い。
自分の話。
子どもが生まれ、父親になった瞬間、実感が湧いたと言えばウソになる。
正直実感という実感は無く、ただただ「嗚呼、この子の父親なんだな」と。
0歳の我が子に対する愛情は、自分が今まで生きてきた中でのそれと違って、明らかに浅いというか、ある種「子どもへの愛情」というこれまで無かったけど聞いたことのある価値観を意識し、自己暗示的にそれを感じようとしていた、感じた気になっていた、ような気すらする。
要は、「子どもへの愛情」という価値観にパニクっていたのだと思う。
きっと今まで、大好きな恋人のために何かをしてあげる、そのパワーの源がいわゆる愛情だ、ぐらいに思っていたんだと思う。
愛情=恋の中にある、みたいな。
それが急に恋ではないところに、世の中的にいう「目の中に入れても痛くない」ほど可愛くて可愛くてしょうがない我が子が現れ、同時に、子どもに対する愛情、というワードも現れたわけで。
そうなると当然混乱する。
恋してないのに愛情とか。
でも不思議なもので、時間と我が子がそれを教えてくれた。
不思議というのは、別に言葉で分かるように説明してくれた、とかそういうのではなくて、日々の積み重ねの中でジワジワと、自分の中のタネが芽生えて育っていくように、一緒に生活する中で自分の中で「これがそうなのかもしれない」と、きちんと定義するわけでもなく、考えるわけでもないけど、ぼんやりそう思えるようになってきた、という初めての体験がそう感じさせてのかなと。
「愛情」とは、「その対象物のことを考えていた時間」
そう考えると、この価値観は時間が教えてくれた、とも言えるのかなと。
言い方変えると、時間の経過で身についた価値観、もしくは、その対象物への価値の変化。
人間にせよ、ワンコニャンコといったペットにせよ、モノにせよ、長い時間一緒にいると、プラスにもマイナスにも価値が変わっていく。
株価みたいな。変化するという意味で。
ずっとプラスに変化、ずっとマイナスに変化、ということはほとんど無いような。
それって、何にでも、その人にとってという意味でも、良いところと悪いところがある、ということでもあったり。
自分の感じている「愛情」が正しいかどうかという話ではないので、別にそれが他人のそれと違っていても関係無いし、なんなら違って当たり前なのだとも思うけど、ただ言えるのは、自分にとって我が子は、0歳の頃よりも1歳の頃のほうが、2歳の頃よりも3歳の今のほうが大きな存在で、愛情たっぷりなのです。
「愛情」とは、「その対象物のことを考えていた時間」と表現できるのではないかなと。
そう考えれば、恋人でも、妻でも、子どもでも、親兄弟でも、モノでも、「愛情」という言葉で表現しても違和感無いのかなと。
余談
ちなみに、
親=子どもに愛情がある
愛情=その対象物のことを考えていた時間
とするならば、
親=子どものことを考えていた時間がある
ということで、ちょっと変な日本語ですが、
要は、親は子どものことを考えている時間が非常に長い、という強引な式です。
最高裁判決は、産みの親より育ての親
http://matome.naver.jp/odai/2140566885559416401
これは「DNA鑑定結果よりも、生活を共にし、育てた男性に父子関係を認めた」判例。
こうは書きましたが、要は、
民法772条の「妻が結婚中に妊娠した子は夫の子と推定する」(嫡出推定)規定の例外としない
ということ。
すべてこの判断軸で子どもが生きやすく幸せな時間を過ごせれば良いのですが、そうでないケースもあるわけで。
だからといって、他に良い判断軸があるかというと、なかなか無いわけで。
映画「そして父になる」も観ましたが、ああいう"取り違え"という事故もあったりで。
自他共に認めるダメなパパでも、DNA的な繋がりは無くても、一緒にいた時間はパパだったんだよ、と。
パパはパパなのです。
一緒にいる時間を大事に。
自己紹介的に「バカボンのパパなのだ」とはよく言いましたね、さすが赤塚先生。
来月、自分の父親と、自分が父親=子ども、と温泉旅行に行ってきます。